昭和四十八年八月二日 御理解第三十三節
「御供物とおかげとは付ものではないぞ。」
これが金光様の信心の建前であります。金光様の御信心は何処までも信心、信心が段々分かって來る。出来て來る、信心が身に付いて來る。その信心におかげが頂けるという。これは絶対のものである。
信心に伴うてくるおかげ。これが金光教の云うなら、おかげと云うのはそういうものであります。というてお供え物をする、御用をすると云った様な事であかげが頂かれんと云うことではない。頂ける、確かにお供えすればおかげが頂ける。御用すりゃやはりおかげを頂く。けどもそういうおかげではです、金光教でいう教祖様が天地の親神様から頂かれた御信心、教祖様が表されたところの信心、天地金乃神様が金光大神を通して、どうぞ信心しておかげを受けて呉れよと云うそれに反することになる。
氏子信心しておかげを受けて呉れよと云うそのおかげにつながる。 その信心につながるおかげでなからなければならん。だからそのおかげは絶対のもの。信心には一尺、それにはおかげがそれに対する一尺に対する影が寄り添う様なもの、影がつく様なもの。これはもう絶対の理です。
信心に依っておかげが頂かれると云うことは、そこで例えばおかげの受けられん場合は、自分は信心と思うとるけれども、教祖様が仰っている信心ではないと気付かせて頂くところに信心のやはり稽古がいる。お話も頂かなければならない。又 おかげを受けて居る方達の信心も見習わせて頂かなければならないと思う。
勿論おかげと云うことは、お金とか健康とか云った様なことばかりではありません。眼には見えないところにおかげが頂けて來る。そのおかげが実感できれる信心、いわゆる無形のおかげと有形のおかげとでも申しましょうか、絶対のものですおかげだけは。
信心に打ち込んだら打ち込んだだけのおかげは絶対のものです。形には見えてないけど無形のおかげは絶対頂いとるのですから、実は御礼を申し上げねばいけません。そしてあえて申しますとです、お金の事は神様にお願いしたことはない、まあだ健康の事をお願いしたことが無い。まだ人間関係の悩みなどまだ神様にお願いしたことがない。せんでいわば済む程しのおかげ頂かにゃいけん。全然問題が無い、お金は平田さんじゃないけれども、もう神様と財布は一緒だと云うおかげ、健康の上でもまあだ、私でも五つの願いを真剣にさして頂く様になって、まあだおかげで頭が痛いとか風を引いたとか、前はよう風邪をひきよったけれどもおかげで引きません。
だからもう、健康のことなんか願ってますよ、けれどもさあ頭が痛いから好うならして下さい、腹がせきよりますけん好うならして下さいでなくて、よりいよいよの健康は願いますけどね、違うでしょう。これはもう健康のことだけじゃありません。経済の事でも人間関係の様々な難儀というその難儀をです、云うならば感じんで済む程しのおかげが頂かれる。それは信心に依らねばなりません。
願うたから頂くと云うのではなく、願わんでも頂くおかげです。それを頂ける程しの信心を頂かなければならん。
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今朝方もう、ハッとびっくりする程のお知らせを頂きましたから、それから起きてから又お礼にここに出て来ました。それから又寝ませて頂きましたら、もう時間が一時間余りしかないから丁度二時半でしたから、もう一時間しかない。それでもう寝まずにと思うて長うなっとりましたら、とろっとしたのでしょう。お夢を頂いた。 そのお夢の中で久富正義さんが、こげんとても沢山のおご馳走は私だけじゃ食べはきらん、どうぞ皆さんにも上げて下さいと、こう云いよるところを頂いた。それがどういう事かと思うたらすぐ気付かせて頂いたこと。
昨日月次祭が終りましてから、文男さんそれから秋永先生正義さん、それから高橋さん繁雄さん残っとられました。
それで最後には帰りがけに又事務所で五人ですか私とも六人ですか、又信心話になりましたもんですから、もう時間の経つのも忘れて話を聞いたりさせて頂いたりした。それにね、秋永先生がもう他の者には云われんけれども、あんた達には聞いといて貰わんならんと云うて、文男さんと正義先生に二人に話すわけです。
それもね私は今日お月次祭を頂かせて頂きよってしきりに自分の心の中に感じたこと、だからこれはどうでも皆に云うて上げるわけにもいかんし、又こげなこと云いよったら腹かきもしなさるかも知れんから、これは正義さんあんたと文男に話すよと云うて話したんです。
だからその話のこと、あたしも横で聞きよってあまりにも素晴らしかったからです、これはとても私どんが二、三人そう云いながら繁雄さんも聞いておるりゃ、高橋さんも聞いておられる訳ですけれども、余りに素晴らしい話しであったから、成程正義先生がこれはまあ私どんだけで頂くこげなご馳走は私どんだけでそれだけで頂きゅあきらん、もう一ぱいお膳部が出ているのです。そう云いよるところです。だから皆さんにも上げて下さい。だから云うならば秋永先生の言を借りるならば人には話せない話しだけれども、正義さんがとても私だんじゃ食べきる話しじゃなかから、皆にも上げて呉れと云いよるから今日はその話を皆さんにしようと思うのです。しかも今日頂きますことが、お供え物とおかげとはつきものではない。 なら何に付くかと云うと、信心に伴うおかげでなければいけないと云うこと。それは文男さんでも正義さんでもあんた達は信心の芯と云うもの信念を持って居る。そして決まったところだけはきちっとした信心が出来て居る。それに例えば、昨日の夏期信行の終りに他所から講師を迎えてお話を聞こうと云うのは、お話なんと云うのは親先生の話を頂いとるけんどうでんよか、本当は。けれどもそこに教会としての働きと云うものがです、いわゆる教会の活動と云うものがです、ああいう風に活発にあるときに、あんたどんが来とらんと云うことはどうした事か。正義さんは来とることは来とるばってん、さあ平田さんの相手でもして貰おうかと思うときにはもう居らなかった。いわば、将来合楽を担って立って貰わねばならんあんた達がね、そういう事でどうするかと、云う訳ですから、やっぱり耳の痛い話です。
私は今日、月次祭を仕えながらしきりに自分の心の中に思うた事は、もすい一生懸命の信心をせずして、まあ儲け出したとするか、そうしたらね、合楽教会の信者の後々の者にどういう悪い影響を及ばすかと思うたときにね、これは本気で信心させて貰うておかげを頂いたでなければ、後々の者に残しておくことが出来ん。
月の中に五回か十回か、まああの人達が十回位参って來るでしょうか。そりゃ成程何かと云えば合楽の事、あの人達が居らねば出来ん程しの御用も頂いとるけれども、そん位のことで儲け出したと云う位ならです、他の者があんたの真似するよと云うことです。
事実真似しよる者も居ると、そげん参るばかりが能じゃない。只御用するばかりが能じゃないと云った様なこと。あんただん菊栄会の時話よるめいなと云うてから、まあ云うて話しよりました。
まああんたどん、仲々おかげを頂くこつ合を知っとるから、あんたどんがその位の信心でもならおかげ頂くかも知れん。いえ頂くだろう、文男でも正義さんでも、云うならば商売の方は伸びるばっかりだから、だからそれでもし、おかげを頂いたらです、あの位の信心でおかげが頂けると云うことに信者が思うたらです、どういう事になるかと私は今日しきりに月次祭のときに思うて、これは本気で成程あれだけの信心しよんなさったから、あれだけ大変なおかげ頂きなさったと云うものを残しとかねば、これはもう合楽の将来のためにそういう信心を残しとかにゃいけん。
私はそれを聞きながらさすが秋永先生だなと思いました。高橋さんとか佐田さんの様にです、ああ云うならば一生懸命のそれこそ信心を頂いてあれでおかげを頂いて、事実おかげも頂いとるがあれがいよいよ大きなおかげになった時です、成程先輩達はこういう信心をしてああいうおかげを残しておられるという手本をね、作っとかなければ、例えばあんた達位の信心でおかげを頂いたと云えばもうあんた達以下のものになってしまうよ。信心者がと云う意味のことです。まあ色々話しとるときに素晴らしい。だからあんた達にとても他の者にどん話よると他の者は腹掻く。まああんたどんだから私は話すよと、いいえそげなだんじゃない、今日は大変なおかげ頂いたと云うてまあ二人とも話を頂いとりました。
そうしてです、あんた達位のことでおかげを頂いて、おかげを本当に例えば、云うならば金にも不自由せん、健康もおかげ頂いてとこう様々の上におかげを頂いたらです、そういうおかげはもうおかげをおかげとあんただん感じん様になる。例えば先に申しました、おかげと云うものは信心に絶対につきもの。お供えにはつかんでもです、信心には伴うものだと。
けれども余り明る過ぎますとね、あまりにそれこそ昼を欺く程しの明りになって参りますとね、影が伴わなくなって來る。実際影は伴っとるけれども、影が分からん様になって來る。
云うなら教祖様はそこんところを、痛いのが治ったのが有難いのではない。いつも壮健なのが有難いのぞと云う。さあ壮健なときに本当に有難さが分からん様なもんだと云うわけです。もう元気であると本当に健康のおかげを頂いておると云うことをです、思うことがおろそかになる。けれども一偏本当に生きるか死ぬかという病気をして助けて頂くとです、成程おかげと云うことが分かるようになる。そこを通ってから頂くおかげでなからなければ、云うならば合楽百年の計とでも申しましょうか、私どんが死んだ後にです、あの人達はあの位の信心でおかげを頂いちゃるとよ、あの人達は成程それこそ真似の出来ん様な素晴らしい信心をしござったげなが、そしてああ云うおかげを残してござると云うことにならなければ、後々の者のための手本になる様な信心ばしとかなければです、自分の為にも教会の為にもこれは由々しことだから、いっちょあんただん本気でせめてね、合楽教会で何か行事と云うごたるときにはあんたどんの顔が見えとらんなら、もう親先生も淋しごたる風じゃが私どんもやっぱり淋しいと。いやそれも私どんもようわかっとる。この頃から私はお夢を頂いて、お父さんの御霊様が出て来られてから、丁度お金に難儀しとる時だったそうで、そしたらそのことを信心せんからそうだと云う意味のことを頂いてもう本当に汗顔の至りだと云う意味のことを話しておりました。それで私どんも本当にいっちょもう教会に入り浸りに、おかげで入り浸りしながらおかげの頂ける様なおかげを頂かにゃならんと思うとります。だからそりゃ、あき永先生思わんわけじゃなか、思いよります、しきりに思いよるとだからね、あんただんが思いよるだけでそれが出来るようになってからじゃもう遅か。お金にも不自由せんごとなった、健康もおかげ頂いた、家庭もおかげ頂いた、商売繁盛しよるゆうごとなったらあんたが教会に入り浸って御用をさして貰いよると云うたってもうそんときゃおそかよ。
これは善導寺教会の上田さんと云うとっても良い信心をなさる方が居られました。私が上田さん、植木やさんでしたからね、ずっと植木を売りに回られる。もうその時に六十四、五でしたでしょうか。もうそげなことはお宅には立派な息子さんが居るけん、それに委せたら、もうそれこそ今あなたが教会を中心に御用なさらにゃ何時出来ますかと私が云いました。いえ大坪さん、私はそれはよう分かっとると、まあ三年待って呉れんの、まあ三年もうそれこそ私が教会に入り浸ってから御用さして貰うけんと云いよったら、明くる年ころっと死なっしゃった。金比羅さん参りしてから旅館でちゃんと いちゃったげな。
これなんかよい例ですよね。あれも出来た、これも建てたと云うごとなったら本なごて教会に入り浸りして御用頂こうと思いよる。高橋さんのごたるおかげも頂きたいと思いよると云うて実際思うとるです。嘘じゃないです。けれどもね、正義さんそげん何も彼にも足ろうたと云うときに御用頂く時じゃもう遅かばいと云うてそういう話ばしとりましたから、本当に時間の経つのも忘れて皆がそれこそ聞かせて貰いました。
だから今朝私が頂いたお夢がです、とてもこげなご馳走は私達だけで食べきる段じゃなか、秋永先生は誰にも聞かされんと云いよるけれどもです、皆さんにも上げち下さいと云いよることは今日の御理解、皆さんにも聞いて貰えと云う意味と思うたから、それを話そうと思うたなら三十三節のこれを頂いた。
おかげはね、お供えにつくものじゃない。いやそれはつきもする。それはお供えすればおかげも頂くばって、そういうおかげは金光教的ではない。おかげはどこまでもお道の信心は信心によらなければならない。信心に勿論修行は付ものでありそこに付いて來るところのおかげは絶対のものである。
月の夜の晩なんかは影が映ってすぐわかるけれども、なら私はまだ行ったことはないけれども、野球のナイターと云うですか、ああいう様に明るさ、昼を欺く様な明るさになって來るとです、もう影すら映らない。だからそういう素晴らしいだからおかげを頂いたときにです、さあそれからと云いよったっちゃ、おかげをおかげと実感しきらんから本な御用は出来はせんとこう云う。
本当にあの時助けて頂いて、あの時一口お取次頂いてあれだけ出来るだけ修行させて貰うて、今日のおかげを頂いたと云うからこそ本当の御用が出来る。これは先日からの平田さん辺りの信心がそうです。もうそれこそ死ぬか生きるかと云う大変な苦労もさせて頂いて今日のあの何十億という財産、そして自分と云うものはそれこそ席の暖まる暇もなく、それこそ全国教会を回らんとこがないと云うごと御用だけに打ち込んどられる。
と云うのは秋永先生が云うのはそこんところだと私は思うのです。だから私もそれをしきりに思うて、これはいっちょ本気で出来るだけの信心修行させて貰わにゃ出来んなと、そして頂いたおかげでなけりゃ値打はなかばいと、私はそう思うたと云う話を昨日話しとりました。正義さんと文男さんだけに聞かせる話じゃ勿体ない。そこから一つ皆にも聞いて貰うて呉れと云うのが今日の私のお夢であったとこう思いましたからね。今日はお供え物とおかげは付物ではない。なら何に付いておるか、金光様の御信心はどこまでも信心に依るもの、信心に伴うてくるもの。
信心とは只拝みよります、参りよりますでなくてです、信心の云うならば本質と云うかその実体を自分自身の信心の中に頂くときにです、一尺のおかげを頂けば一尺に伴うおかげ、一丈の信心が出来りゃ一丈に伴うこれはもう絶対の理である。それだけの影が伴うと云うことはその絶対と云われるおかげを頂かなければ本当の金光様の御信心のおかげとは云えないのであるし、又有難いそれこそ後までも残ると云った様なものにならない。
一生懸命の本当の信心を分からせて貰い本当の信心をさせて貰うて、このおかげを頂いた、ああいうおかげを頂いた、いわゆる初代の先生の時分にそういうおかげを頂いた、皆さん方こういう沢山居られたげな、そして現在あの様なおかげを頂いて居られると云うものでなからなければ、後々の者の為に後々の合楽のことを思うたら、これはここんところに気付かねばいけんのじゃないかと秋永先生の弁であります。それを聞きながら私も成程本当にそうだなと思わせて頂いた。 どうぞ。